昭和41年06月07日 朝の御理解
付け焼刃の信心では取れ安い。どうぞその身から打ち込んだ信心をしてくれ。しようことなしの信心。人に進められてからの信心と言うものは、いわば付け焼き刃。付け焼刃では取れやすい。どうぞその身から打ち込んだ信心をしてくれと、こう仰る。何故そういう打ち込んだ信心をしなければ出来んのか。それはおかげを頂くために、という事になるのでしょうけれども、その身から打ち込んだ信心。
その身から打ち込んだ信心になりませんとね、信心が好きになれません。信心が好きにならなければ、信心は上達致しません。信心は限りなく上達していかなければならない。という事は、信心の神様に打ち向かう心が、段々本当なものへ生長していくという事。年数だってさえたてば、信心の年齢と言うかね、信心が成長するかと言うとそんな事はない。何十年信心したって一つも成長しとらん。ね。ただ信心とは神様を拝む。自分の都合のよか時だけ拝む。
自分の知恵力が出来ん時に、お縋りをするという事だけにしか求めていない人達。こらもう何十年経ったって信心が進まん。信心が進という事は、それだけ真実の幸福を得るという事なのですから、ね。信心が好きにならにゃいけません。これは例えば、教祖または宗祖と言われるような方達は、確かにもう小さい時から信心をお好きであったと。教祖の神様でもお小さい時から、信心がお好きであったと。ね。十二歳のお歳にご養子にお出でになられた。一番初めにお願いなさったことは、そんな事であった。
いつもかつもとは言わん。ね。休みの時にはどうぞ、心よう神参りをさせて下さいという許しを頂かれなさった。ついてはまぁだ年が十二であるということである。ね。そのためには、非常に精進をなさっておられる。この近所にはあの瓦を焼くところがあったらしいですね。大きな。そこでもう村内の人達は、みんなそこの燃料を暇暇に、山によう焚き物取りに行って瓦屋に売った。燃料といっても松葉かきですね、この辺で言う。松葉を取りに通った。
人が二回行かれる時にはどうしても、一つやはり工夫をして、三回お出でられたと言うことである。そして二回はご両親へ働きの金を渡された。そして一回の分だけは、神参りをするための、その費用に当てられたということです。ね。ですからやっぱ好きにならないけん。好きになりゃどんな高いもんでも、こら良いなと思うたら買わにゃおられん。ね。好きになったら高くても、例えば私共若い時から、芝居が好きでしたからもう、本当にそうですね。やっぱりあの時分に六、七円も致しましたでしょうかね。
( ? )ね。時間と金を費やして、そしてやはりお芝居に行ったもんです。もう芝居小屋の近所にでも行こうものならもう、走り出さねばおられなかった。そんなに好きなんです。どんなに眠かったっちゃ、芝居のそしてパチッと目が覚める。ね。それだけ信心が好きだと。それかと言うとぐうぐう言うてからいびきかきよる。こら好きでないあんまり好きでない証拠です。もうどんなに眠かったっちゃ、ご信心がらパチッと目が覚めるくらいにならないかん。
こら私自身も、それを思うんですね。もうお前がその、そうしよると目を覚ました。もう朝起きるのが目が覚めん。やっとかっと目が覚めて、もう洗面所まで行く間、どげんして行ったじゃら分からんような事がある。これがどうやろか、今日は芝居見に行くという時には、パチッと目が覚めるだろうと思うんです。如何に神様は、信心が好き好きと言いよるばってが、芝居のほうが信心よりも好きなんじゃないだろうかと、言う位に思うんですけれどもね。好きにならにゃいけませんとね。
お参りするのにしるしたろかい、ね。只今修行中と。ね。いわば好きになるということは、稽古を一生懸命しておる時だと。これはそうですよ、ね。勉強せん好かん子に、勉強せろ勉強せろと言っても、それこそ聞きゃしません。けども本人自身がやろうという気になって、勉強しだしますとですね。なるほどつらい。ね。けれどもその勉強が、いわばまぁ勉強のしみちがです、段々分かってくるとです。本当にその勉強することが、自分の身になってくるようになりますとですね、勉強が楽しゅうなってくる。
もう遊びよるのが馬鹿らしかごたる。もういつも手から本ば離そうごつなかごつなってくる。暇さえありゃ勉強しようごつなって来る。信心でもそうです。もう離れられん。暇さえありゃお参りしようごたる。昨日の朝の御祈念の時でした。関さんがお野菜を作りよる、好きなんですね、関さんは、お野菜作りよる。きっとお花を作りよる。もうあの大変な忙しい、ね。あの仕事なさっておられるですよ、美容院ですから。
『それでも私は行ってみたことないのだけれども、いつも綺麗な花を、あぁしてその時折の花を持って来て下さる。自分が丹精こめてやっぱ作られる。もうお野菜なんかもう、本当にどの当りの専門のお店で作られたように、綺麗に出来ておる何でも。何時もそれをその持ってきなさる。持ってきなさるじゃないお供えなさる。やっぱそれが好きなんです。ね。魚釣りなんかの好きな人、魚とりの好きな人。必ずしも魚を食べることが好きと言うことじゃない。
食べるとは好かんばってん、捕るとが好きという人がある。こら好きなんです。ね。もうおかげそんなことは、だんじゃない、もうとにかくお参りをさせて頂くという事。御理解を頂くということ。心行くまで御祈念させて頂くということ。もうこれがなんともかんとも( ? )言う様な人もある。ね。そのような生き方で参りますと信心が進む。ね。と言うてほんなら、教祖の神様やら他の宗祖、教祖といわれる方達の上にもです。子供のときから、好きだったと言った様な事はなくってもです。ね。
いわゆる好きこそものの上手なれと、こう言うのですから、やっぱ好きにならにゃいけん。ね。信心にならなければ馬鹿らしい。ね。私共大体が頭が、あんまり良くない方ですけれども、やっぱり、小学校の四年生から、五年生ぐらいなったら、こら勉強せにゃいけんなと、やっぱ子供心に感じるようになった。ですからその、もう勉強することが楽しみになってきた。( ? )ちょうど今頃の、漫画とか雑誌じゃなかった。歴史の本の時もありゃ地理の本の時もある。国語の本の時もある。
もう子供は、私は妹を良くおんぶさせてもらったんですけれども、年代がそんなに違いますから。もうおんぶしとったっちゃ、私は必ず本だけは持って出た。と言う様にですね。やはり信心も外されん信心が好きになったら。今朝も私、こう洗面所に行きながらです、眠たいんですよ。この頃ずうっともう寝る時間が全然ないですもん。ね。あちらへ下がっとってから、こう寄りかかってから、ちょっとこう、いわゆる、とろとろしているだけでとろっとでもする暇がない。
それでもやっぱり朝晩は、きちっと時間に奉仕させてもらう。ね。それでもやっぱりこれが本当に好きならです。やはりあの例えば今日、私洗面所に参ります間にです。いっこう目が覚めん。ようと冷たいの水で目を洗う、その顔を洗うてから目が覚める位な事。はぁこれが本当に子供の時に、遠足とか旅行とかといった時にはです。もうそれこそどんなに早く起きっても、パチッと目が覚めたもんねと、自分で思うてみた。
さぁ今から、自分の一番大好きな神様の前に出るんだと、思うたらもう本当に目がパチッと覚めなければいけんのに、私が好きだ好きだと言うとっても、このくらいのもんだろうかと自分で思うた。ね。だからもっともっと好きになるために、一つ精進しなければならんなぁと、私はご神前で思わせて頂いたらね。あの剣道具を着けてから、一人は上段にかぶり、一人はこう正眼に構えておるところを頂いた。剣道のいわば修行をしておるとこなんです。真剣を持ってしておるというのじゃない。
やっぱり防具を着けて、いわゆる竹刀を持って、ね。真剣とこう言うけども、真剣とまではいかんでもです。せめていわば防具を着けて、剣道の稽古をするときの、あのいわば、真剣さというものが、隙が出来たら打ち込まれる。ね。または相手の隙が見える。胸に隙があったら打ち込もう。隙があったら打ち込まれる。そのくらいな私はこの真剣さと言うものがです、ね。御神前に出る、ね。御祈念に出る。ね。
例え一時間二時間、御祈念させて頂きよっても、まぁもう一時間も二時間も御祈念する時には、いよいよ有難い時ですから、そんな事もないですけれど、結局私の一時間なら一時間の御祈念かかる、すと皆さんはそげんしょうごつなか時には、やっぱり眠気がくる。だからここに、一つの方法を工夫しなければいけん。もう、頭をここに引っ付けたら、必ず、眠気が来る。ここにゃ、指一本ぐらい空けとかにゃ。必ず、頭ば、こうこやってからね、拝む人がある。あれは、ぐうぐ寝る証拠です。ね。
もうとにかく、御神前に出るとが楽しみのごたる風です。寝られるので、ね。とにかくあの汽車のレールの中で御祈念をする気になれと仰る。何時汽車がバーっと来るやらわからん。ね。ま、例えばそういう厳しいです。言うならば稽古をさせて頂くと言う事。ね。そういう稽古させて頂く内にです。信心が自分のものになってくる。信心のし道が分かってくる。勉強のし道が分かって来ると、本がいつでも外されない様に、ね。信心が自分のものにいよいよなってくると、それが楽しゅうなってくる。ね。
付け焼刃の信心では取れやすい。どうぞその身から打ち込んだ信心。ね。その身から打ち込んだ信心をしてくれと仰る。何故打ち込まなければいけんか。打ち込まなければ、好きになれんのです。ね。好きになるから、また、打ち込まなければおられんのです。関さんじゃないですけれども、野菜作りやら、お花作りが好きなんです。ね。しかも人にあげるとまで好きになる。
私は昨日、先生これがあの最後の夏豆そら豆です。最後の今年のまぁ一番お祭りの時にもお供えさせて頂いて、勿論その(?)にもお供えをされた。もう今年がこれはあの一番最後。もうみなかがり上げた。ね。けれども、もうことしでは、まぁこれが一番最後だから、やっぱ、お供えしなけりゃおられない。まぁかがりあげじゃけん、こげんとはご無礼になるという事はない。もう今年はこれが最後だからと言うのだから、やはりお供えしなけりゃおられんと言うて、お供えなさりましたから、私申しました。
お供えの精神とはこういうもんでしょうねと、私が。ね。初なりをお供えさせて頂いた。ね。また一番最後も、これが今年の一番最後と思うたら、やっぱり供えなければおられないとこう言う。これなんかは、やっぱり、神様が通いござる。信心が好きになってござる証拠だと、私は思うのです。お供えせにゃならんけん、するのじゃ無い。そうしなければおられんのだという事。ね。
ために私真剣にです只今申しますように、せめ剣道いわば試合でもする位な気持ちでです。真剣に神様に打ち向かう信心。そして御理解頂きながら眠気がしてたまらん。朝起きる時にしるしゅうして堪らん。はぁ自分が好きとか言いよるけれども。私は信心が好きとか言いよるけれども、こん位な自分であると言う事を、先ず知らにゃいかん。そしてよりもっと、好きになるための工夫をしなければいけんね。信心はもう限りが無い。限りなく信心を進めていくためにです、そういう工夫が必要じゃないでしょうかね。
何が何と言ってもです。あの信心が好きに成る位に人間の幸せは無いと思う。そら参って見えさえすりゃおかげ頂く。成程そう言う所から、信心を始められたに致しましてもです。ですからおかげ頂くなら、頂きたいなら頂きたいでも、もっと本気で真剣に打ち込まなければいけん。そしてその打ち込んでおるうちに、信心を体得させて貰う。自分のものにさせて貰う。ね。そこに信心の本当の喜びというのがです。
感じられてこそ初めて、お参りが楽しゅうなってくるのであり、それこそ神様もそれこそ嬉しゅう楽しゅう、おかげを下さる事であろう( ? )私共も本当にいらいらせんでも、神様は先回りして、おかげを下さって有難い。実に勿体ないことだという生活にも、おのずとなって来る事になるでしょう。お互いが信心が好きなようにあるけれども、もうその好きといっておる信心をもう一段です。好きと言うてもこの程度。色々あるのですから。私はあなたが好きだと言うてもこの位、と言う人もあるんです。
と言うてこの位な人もある。ね。こげんしてもうその抱締められると言う位好きな人もある。ね。ですから私共はその好きと言うても、やはりその人の段階と言うのがある。だから、全部以上に信心が好きになることのために、本気で真剣に信心の稽古をさせてもらう。その真剣に、信心の稽古をさせてもらう時には、ね。少しは( ? )すこしはしるしい。けどもそこを乗り越えていく時に、それを神様は外すことは出来ない修行と言う、ことになって来ないでしょうかね。
どうぞ。